木 曽 馬 年 表

西暦 年号 分類 内容
532 記載 和漢三才絵図に馬を放牧していた事が記載
665 記載 馬20頭を天智天皇に献上
701 歴史 大宝律令「厩牧令」
702 歴史 木曽山道を開く
713 歴史 木曽山道の改修(平坦化)
723 歴史 木曽川に橋、木曽古道の改修国史の往来始まる
905 歴史 「厩牧令」の明白化
雌馬100頭を飼育し、毎年60頭を目標に生産という記載あり
975 歴史 木曽古道交通の要に
1155 木曽氏 木曽義仲、木曽の地へ預けられる
1180 木曽氏 木曽義仲、挙兵。
1181 木曽氏 木曽義仲、開田から長峰峠を越え飛騨へ侵入し、平家を駆逐し駿馬を徴発した
1184 木曽氏 木曽義仲討死
当時の木曽馬の毛色には白い系統芦毛、月毛、佐目月毛などが多かった様子。
1336頃 開田 木曽馬の生産の開花このころから
1549 木曽氏 木曽氏、武田勢に攻略を受けるも、鳥居峠で撃退
1554 木曽氏 木曽氏、武田勢の攻略により、和睦。贄川の桜澤を境とする
1560 木曽氏 飛騨、三木家の桧田治郎が日和田から長峰峠を越えて侵入。西野峠で木曽氏が撃退
木曽馬と飛騨馬の戦い
1568 記載 貢馬制度の用語である「毛附」が出始める
1582 木曽氏 木曽義昌の謀反により武田勢が来攻。織田勢の応援を受け撃退
木曽馬と甲斐馬の戦い
1584 馬政 「毛附の物成」という家畜税を徴収
1590 歴史 木曽氏に代わり、尾張犬山城主石川貞清の弟光吉が代官となる
1600 歴史 山村家が代官に命ぜられ、木曽谷を支配
1616 馬政 毛附制度により徴収した年貢から300両を運上金として収める
優れた木曽馬の流出、資質不良の始まり
1660頃 馬政 馬の引き出し費用として2分を支給
のちに、良馬には一両、中馬には3分ずつ支給
1665 改良 4代代官により奥州南部より雌馬30頭を買い入れ主産地へ配置。
南部馬による初めての木曽馬改良
1676 馬政 馬産衰退により、尾張藩が毛附運上金を300両>225両とする
1689 馬政 さらに75両減らし、150両とする
1716 馬産状況 少しずつ増頭する
1760頃 馬市 半夏の日を馬市と定める(別書には1750年とも)
1783 馬産状況 天明大飢饉により馬産衰退
1804頃 馬政 留馬制度による厳しい取締り、馬の持ち主から誓約書をとる
馬産状況 このころ最も増殖したと考えられる
1832 馬産状況 凶作によりわずかに減少 2500頭内外が飼育されていた
1838 記載 馬の小作制度に関して記載する記事あり 尾張藩 岡田善九郎
開田の戸数は478戸で人口は2461人
1868 明治元年 歴史 岩倉具視が木曽を通過、木曽馬産について調査。
鹿毛5歳と青毛4歳の2頭を献上
馬産状況 木曽馬の総頭数は約5000頭
廃藩後馬産が民業に委ねられ良馬が流出
明治6年 馬政 木曽の牛馬商組合により留馬制度を取り入れ馬産向上の兆し見える
馬産状況 飼育頭数6000頭
明治9年 歴史 官民有地が区別され官有地への放牧が禁止 草地減少による馬産への打撃
明治11年 馬市 旧筑摩県より「人家櫛比の市中において開市することはまかりならぬ」との禁令が出る
明治13年 歴史 明治天皇巡幸 木曽馬を天覧し御料馬として鹿毛と青毛の3才雄馬を3頭御買上
馬市 市街地道路へ幅6尺の柵を設け通行に支障が無いようにし、許可を得、市中開市を続ける
明治15年 馬市 競売規則を設け、市場改良の端緒を開くとされているが、実行されたかは定かでない。
明治17年 歴史 長野県産馬共進会の開催 郡内外から272頭が参加
改良 農商務省の係官から木曽馬改良について指示あり
南部地方より種雄馬11頭、種雌馬9頭を購入し本格的な改良に着手
明治19年 馬政 馬地主、馬商など馬産農家3232人により木曽産馬組合設立 
馬産状況 種雄馬48頭、種雌馬4419頭
改良 陸奥産種雄馬17頭、米国産トロッター1頭購入
馬市 上町から広小路までの市街地にての路上に繋いでの市場開場廃止
明治20年 改良 陸奥産種雄馬14頭を購入
体格の大きい中間種との交配を拒否する農家が多い。
明治24年 馬政 購入した洋種馬を売却。木曽馬の優良馬を選定し種雄馬にする気運高まる
明治31年 馬政 種雄馬検査法の施行
木曽馬には適合するものがなく38年までの猶予認可を受ける
明治32年 馬政 産牛馬組合法の公布 
木曽産馬組合を解散し、木曽産牛馬畜産組合を設立
馬産状況 組合員数3416人 種雄馬58頭 種雌馬6765頭
事業 福島町、向城、青木町、旭町間に市場を設ける
明治34年 馬政 愛知種馬所設置。西筑摩郡はその管轄区域となる。
明治37年 馬政 愛知種馬所管轄の種付所が各村に置かれ種雄馬不足を補う
明治40年 馬政 長野種馬所が開設されるも木曽は愛知種馬所管轄とされる
種雄馬1頭当たり60頭内外に種付を実施、洋種の種付料3円、雑種は無料
木曽馬への執着を捨てきれず洋種、雑種の交配拒否。密かに明け3才馬を巻き馬
明治45年 馬市 青木河原へ馬市移動
大正元年 改良 第四ガズラン、順天などが各村へ分遣
木曽産牛馬畜産組合は1頭一年に付き15〜30円の預託料を徴収した
記載 第三師管陸軍獣医分団編集 木曽の駒」に木曽馬の将来について記載
大正5年 馬政 馬匹去勢法が制定 種雄馬以外は明け3才の春に去勢されることになる
大正6年 改良 六蘇、六田、六峡、六岳の購入民有種雄馬として配置
大正12年 馬政 愛知種馬所の廃止により長野種馬所へ移管される
大正13年 馬政 第一次馬政計画二期に入る 木曽馬の大半は軽半血か中半血になる 
郡北主産地の一部では純血種の保存を続けた
昭和3年 国富号産まれる
昭和6年 歴史 満州事変
昭和10年 馬政 これ以降軍の要請により種雄馬はすべて中間種に置き換えられていく
昭和12年 歴史 日華事変 
馬産状況 軍馬徴発により一時的に頭数減少。総頭数800頭ともいわれる。
8月に山吹号 徴発 その後飼育者も招集11月に中国石家荘で同馬に
偶然にも再会
馬市 県条例により競売が義務付けられる
昭和14年 馬政 種馬統制法が施行 地域的役種別産馬方針が定められる
民有木曽純血種雄馬が消えてゆく
昭和16年 馬政 開田へ国有種雄馬配置 中半血、トロッターなど
木曽系種雄馬の根幹となる「朝日号」も配置される
昭和18年 木曽系種雄馬「宝号」誕生
昭和20年 歴史 終戦
馬産状況 10歳以上の木曽純血雌馬がわずかに残っていた
昭和21年 馬政 木曽馬の保存事業について 木曽馬匹組合において協議会
登録事業開始準備と馬体測定を実施 木曽馬登録審査標準を決定
昭和24年 馬政 長野県馬匹組合連合会解散、長野県種馬登録協会へ事業移管
昭和25年 神明号 が更埴市八幡の武水別神社で見つかり、払い下げられる
昭和26年 第三春山号 産まれる
昭和28年 馬政 木曽馬登録事業の中止
第三春山号種雄馬候補として検査を受ける 合格し奈川村へ
昭和37年 第三春山号 開田村へ異動
昭和44年 保存会 木曽馬保存会の設立
飼育 名古屋鉄道 木曽馬の飼育開始
昭和45年 保存会 日本馬事協会に長野県支部として加入が承認
昭和47年 栄昇号 産まれる
昭和48年 第三春山号 日本動物愛護協会から表彰を受ける
昭和49年 第三春山号 病気になる
昭和50年 第三春山号 開田村を去る
第三春山号 剥製になり開田村に帰ってくる
飼育 名古屋鉄道 日和田に木曽馬牧場を造成
昭和51年 馬政 日本馬事協会により木曽馬の登録事業再開
昭和52年 保存会 日本在来馬保護活用対策協議会の開催
昭和54年 栄昇号 開田村へ寄付される
昭和58年 天然記念物 長野県天然記念物として20頭が指定される
昭和60年 栄昇号 廃用
平成二年 事業 ジーンバンク事業で 種雄馬1頭、種雌馬2頭が北海道十勝牧場へ異動
平成四年 保存会 在来馬保存活用連絡協議会 開田村で開催
平成6年〜 事業 木曽馬の里 整備始まる
平成7年 事業 木曽馬の里 厩舎完成
平成8年 事業 木曽馬の里 体験乗馬開始
平成9年 事業 岐阜県高鷲村 ひるがのホープ 東京キャラバン実施
平成17年 事業 木曽馬の里 馬車運行開始
平成18年 事業 岐阜市畜産センターへ風恋号導入(北海道十勝牧場より)

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