木曽馬の歴史2

木曽馬産の確立@

木曽代官、山村家の馬政

天正18年(1590)小田原攻めの後、木曽義仲18世の子孫木曽義昌は、豊臣秀吉によって下総の国へ移封となり、410年余に及ぶ木曽家も没収され、尾張犬山城城主石川貞清は弟の光吉を代官として木曽谷を支配させた。その後慶長5年(1600)関が原の戦い以降は家康に味方した山村良候(やまむらたかとき)が木曽代官を命ぜられ、明治まで13代274年間世襲して木曽を支配した。大阪城落城後2台木曽代官は二条城で家康に謁見の際、家康は木曽の鷹か木曽の馬何れかを希望により賜るとのことであった。代官は鷹は将来必ず献上を申し付けられ厄介なので、経済家畜である馬をもらうこととし、以来木曽馬はすべて山村家のものとなった。

元和3年(1616)木曽が尾張藩領となると毛附馬制度により徴収した年貢から「毛附運上金として300両を収む」と記録されている。江戸初期における飼育頭数は定かではないが、かなりの重税であったと思われる。また、長年にわたり優れた木曽馬は武士の乗用馬として他国へ流出し、残された馬は倭小化と同時に資質不足となっていた。

寛文5年(1665)4代木曽代官は木曽の馬産が衰退したことを憂い、奥州南部に家臣を派遣し雌馬を30頭余り買い入れ、毛場と称する木曽馬の主産地である荻曽、薮原、在郷、菅、宮ノ越、原野、上田、黒川、末川、西野、三尾、黒沢、王滝、岩郷、小川、荻原の16カ村へ配置し、初めて南部馬による木曽馬の改良が実施されました。しかし、種雄馬の導入をしないので、木曽馬全般にわたる馬格向上と資質改良の成果はほとんどあがらなかったと考えられています。

山村家は木曽家以来の毛附馬制度を継承し、一層と厳しい留馬制度を設け毛場の取り締まりを強化した。また、秋には役人を派遣して巡回し、一定の場所に馬を集めて当歳駒の毛色、寸尺などを馬籍に記入した。これは、毛附改めと呼ばれ、きわめて厳重であり検査後出産した尾花子(<おばなご>すすきの穂が出る9〜10月に産まれた仔馬)や死亡した馬の届出が義務付けられていました。文化年間(1804頃)以降はさらに取締りを厳しくし、馬の持ち主から次のような誓約書を取ったといわれています。

1、検査記帳以外隠匿密売せざること

1、検査後の出産は必ず届けること

1、病馬、怪我馬の斃(たお)れたる時は検死を受けて埋むること

1、三才馬はたとえ持主、預かり主間といえども検査前において売約をなさざること

この留馬制度は当歳駒の自由売買を厳重に禁止し、毎年7月上旬半夏(<はんげ>暦の上で夏至より後11日にあたる日)の前日、代官所に2歳駒を集めて検査し、不良の馬はたてがみを切って売却を許可し、良馬は留馬として翌年まで持主に畜養させ、翌年再度半夏の前日三歳雄馬の検査をして良馬20頭を選んだのである。選にもれた馬は2歳駒と同様にたてがみを切り、毛色、年齢を記した木札を渡し自由売買を許可した。木札の無い馬は番所を通過することができなかった。これを毛附といい、選ばれた馬を毛附馬と呼んだ。毛附馬は山村家の御用馬にしたり藩主や将軍家へ献上した。中馬は山村家士分以上の者に給付された。召し上げられた馬については、古くは無償だったが、寛文年間(1660頃)から引出費用として2分を支給し、後にはその他上馬には1両、中馬には3分ずつ支給した。留馬制度の延長によって飼育農家は冬季間の乾草の準備をはじめ相当な負担になったと考えられる。

当時は特定の種雄馬を用いたのではなく、もっぱら優秀な3歳雄馬を混牧して繁殖をしていたと考えられ、留馬制度により年により異なった3歳雄馬を交配し、長年木曽馬の改良と生産に貢献したのが江戸時代における山村家の馬政であった。

延宝4年(1676)には木曽の馬産が衰退したので尾張藩は毛附運上金を225両と減額し、元禄2年(1689)にはさらに減額し以前の半額の150両とした。慶長以来、木曽の馬産は不振を続けていたものと思う。享保、元文年間(1716〜1736)頃から少しずつ頭数も増えたが天明大飢饉(1783)により衰退した。その後、文化、文政年間(1804〜1824)の頃最も増殖したと云われている。再度天保年間(1832頃)凶作によりわずかに減少したが、2500頭内外は飼育されていたようである。嘉永年間(1850頃)以来回復し、明治維新となった。

江戸時代を通して木曽馬は代官山村家のものであり、尾張藩への年貢の代償として飼育されたものと思われる。馬の飼育による利潤は別として、木曽谷の農民が畑作農業を維持していくために厩肥は欠く事のできぬ肥料であった。木曽の立地条件が木曽馬を育てたのだ。江戸時代は幾度か飢饉もあり、その都度多少の増減を繰り返しながらも、留馬制度によって木曽馬産の衰退は阻止され、270年間にもわたる山村家の馬政のもと木曽馬は生きながらえ、木曽馬産が確立し明治維新を迎えたのである。

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