木曽馬の歴史3

木曽馬産の確立A

中山道木曽路の伝馬

 中山道木曽路は馬籠(現・岐阜県中津川市)の十曲峠から贄川(現・塩尻市)桜澤までの約92kmの間に11宿あり、他の宿と同様に宿ごとに人足50人、伝馬50頭をそろえなければならなかった。当時の木曽の人口も少なく、11宿で550頭もの伝馬を充足するのは相当困難であったと思われる。そのため、万治2年(1659)谷中の問屋が25頭に減らしてくれるよう幕府へ嘆願した結果、万治4年3月、荷物の多いときは先の馬が再度運ぶことにして承諾された。しかし、寛文5年(1665)幕府は再び中山道は50人、50頭とした。このため、幕府に再度嘆願したが、木曽路だけ例外を認めることはできないが、人馬が不足していることは認められるので、その旨を通行する諸大名宛に通知しておくことになったが、諸大名の人馬の要求は次第に多くなり益々困難になったので、元禄13年(1700)また訴願を始めた結果、元禄14年木曽11宿は人足25人、伝馬25頭に確定された。以降馬の病気、事故などの発生を見越して、常時5頭ほどの余裕をおいて必要数の充足を計った。

中山道の御用通行は勅使、公卿、老中などが多く、しばしばであったためにこれら重要な場合は馬が不足する旨を尾張に申し出て、美濃馬を借用することもあった。江戸時代末期までの木曽馬の飼育頭数は少なく、中山道の伝馬の充足にさえこと欠いていたと思われる。

木曽の馬市

 鎌倉時代以降諸国の武将は名馬の産地である木曽に優駿を求めたといわれている。当然馬は時の支配者の木曽家のものであり、承諾を得て取引が行われたと考えられる。

 江戸時代に入り、寛文年間(1661頃)以降100年余は売却の期日を定めず、馬持ちの主たる者が毎年適当な日を定めて支配所の許可を得て、近隣諸国に通知し開市したのが木曽の馬市の始まりである。宝暦年間(1760頃)から半夏の日を馬市の日に定め、留馬からはずされた2歳駒が市場に出された。その翌日には同じく留馬からはずされた3歳駒が売却され、さらにもう一日延長して売れ残った馬を売却したのである。

山村家士分以上に給付された毛附馬の中馬である馬の内、飼育に困り、乗用に適さない等の理由で9月上旬には中見市という市を開いて売却した。この中見市には毛附馬として選定された優れた中馬を求めて全国から仲買業者が集まってきた。馬市では代官所に馬政所を設け、売り馬1頭につき手数料として銀3匁を徴収した。また、馬市は中山道沿いの店舗先を利用したためにその混雑ぶりは名状しがたいものだったようだ。

江戸時代に発足した木曽の馬市は末期から明治に入ると馬の飼育も次第に盛んになり、頭数も増え、やがて福島県白川、鳥取県大山の馬市とともに日本3大馬市の1つに数えられるほどの盛況が、明治、大正、昭和の30年ごろまで続いた。木曽の農山村にとっては馬は歩く商品として貴重な収入源であった。

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