木曽馬の歴史4

木曽馬産の確立B

馬小作制度

 馬小作の発足は寛文年間であったといわれている。当時は預かり馬と呼んでいたようで、盛んに行われるようになったのは天保9(1838)尾張藩の岡田善九郎が書いた「木曽巡行」記」には

「駒は山深く寒地ほどよろし。木曽にては西野、末川、黒沢を好しとす。皆御嶽の裾野なり。然るに山民共牝馬を買い種馬にいたす程の元手なき貧窮の者多き故福島の商人金主いたし牝馬買上預け置き毎年飼育金一分を遣わし駒売渡の節直(あたい)の3分の1飼主へ与えるなり。牡馬より牝馬は値段よく売れるなり。特に西野、末川村は福島商人よりの預かり馬多し」

と記されている。天保9年の開田高原の人口は478戸、2461人であった。この中には天保3年以来の凶作と天保7年の大飢饉による餓死、離散した31戸の空き家があったという。このころの田は稗田で水稲は日当たりの良い場所以外には育たず、稗、粟、蕎麦、大豆を主食として生活していたようで、江戸時代には50年周期で3度大飢饉が発生しておりその都度貧窮し生活の維持さえ困難であったが、人間の食料と競合しない強健な木曽馬ゆえに飼育も継続されたが、老齢化したり不幸にして病にたおれた場合、1頭4〜5両する馬を自力で買い求めることができなかったため、富裕な町人の持ち馬を預かり馬として飼育した。この制度は次第に木曽全体に普及したものと思う。

 馬を預けた商人を「馬持」と呼び、馬を預かった農家を「馬屋元」といった。

 明治の初期、預かり馬300頭余りを所有していた開田村西野の山下本家は、文化年間(1810頃)より薬種商を営み得た金利を馬の買い入れに投資し次第に頭数を増やしていったといわれている。そのほかには福島村の越中勘、岐阜県高根村(現・岐阜県高山市)日和田の原家のように300頭以上を所有する大馬持があり、中でも福島村の越中勘は1000頭ともいわれた時代があったそうだ。当時村によっては飼育農家の75%が預かり馬であったといわれている。明治に入って仔馬の売却代金は馬持6分、馬屋元4分というのが普通になり、大正以来は折半して半額を馬屋元へ払う馬持が多くなってきた。

 大正4年時の農商務省の嘱託、栗原信氏が全国各地の主要馬産地を調査した際に馬小作制度と名づけ、以後は馬持を「馬地主」、馬屋元を「馬小作」と呼ぶようになった。

 馬地主は福島市場に自ら店を持ち、小作馬の仔馬を明け2歳で販売した。大正期に入ると大馬地主は次第に姿を消し、100頭内外の中小馬地主20余名が代替することとなった。馬地主の中には馬の仲買人を兼ねる人も多く、馬に対する造詣も深かった。また、仲買人はその利益によって馬地主となる者もあった。

馬地主と、馬小作の間における馬の貸借には何等の文書契約をせず、相互の信頼に基づいて行われた。馬を馬地主へ返すのも、馬地主が引き上げるのも自由であった。一度馬小作が始まると、同一の馬地主との関係が永年続くことが多く、馬地主は茶塩の世話から冠婚葬祭などの不時の出費にも用立てするなど、現在の金融機関的な役割も果たしていた。馬小作もまた馬地主が多忙の折には奉公するなど親戚以上の深い交際を保っていた。

100頭以上の馬地主は自ら種雄馬を繋養し使用人によって小作馬のほか一般馬の種付けを行い木曽馬産振興のために寄与することが多かった。

馬小作制度の採算性は、普通母馬が順調に8〜10産すると売上価格の半分は馬地主の所得になったので十分に採算は取れたが、病気や放牧中の事故などにより死んでしまうこともあるし、繁殖期になっても発情しない馬や、受胎しない馬もあり、老齢馬であれば価格も下落することから運不運に左右されやすく、予定通り利潤を上げるのは困難であった。馬の治療費は普通馬地主が負担したが、中には馬小作と折半した馬地主もあった。あまりに採算性の強い馬地主は馬小作に嫌われて、馬を返されることもあったようだ。

戦後25年ごろから馬小作解消について論議されたが、やがて木曽馬は生産性の無い家畜として減少し始め、馬小作制度も自然消滅することとなった。

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