木曽馬の歴史5

木曽馬の受難期@

明治期の木曽馬

明治元年(1868)東山道総督岩倉具視公が木曽路を通過の際、木曽馬産について調査したことがあり、この折に、代官であった山村良醇(やまむらよしあき)は木曽馬の名声を世に広めるために2頭の雄馬を献上している。

このような献上(進上)は江戸期にも行われており、寛文2年には水野出羽守に青毛の雄馬を、元禄10年には老中稲葉美濃守へと贈られている。また、寛永の頃から尾張候も木曽馬を所望され、墨の黒、紅梅栗毛、紅月毛といわれたが、木曽から進上されたのは栗毛と黒栗毛であったが、御意にかない使者は褒美をもらったといわれている。このような進上や買上は享保9年(1724)以降も続いていた。

明治維新における木曽馬の総頭数は焼く5000頭であった。廃藩後、馬産は民業にゆだねられたために価値の高い良馬は再び流出し、馬の資質も次第に低下し頭数も減少していった。これを憂慮した木曽の牛馬商組合は、山村代官時代の留馬制度を取り入れ、明治6年より各村の優良種雄馬を留馬として確保し馬産の改良に着手した。その結果、馬産も向上の兆しが見え始め、飼育頭数も6000頭に増加した。

明治9年、官民有地が区別され、官有地への放牧が禁止されることになり、採草地も減ったので再度馬産は打撃を被ることとなった。

明治13年、明治天皇巡幸の折、福島村において天覧し、御料馬として雄馬2頭を買い上げていただいた。このことは木曽谷馬産振興のために大きな支えとなった。また、その馬の持ち主であった福島村の千村勘兵衛氏は喜びを記念し末川馬頭観音へ献額している。現在この献額は開田郷土館に展示されている。

明治17年6月25日より6月29日までの5日間には福島村において長野県産馬共進会が開催され、郡内をはじめ郡外からも272頭が参加し盛大に挙行された。この折に長野県知事とともに来場した農商務省係官から今後の木曽馬改良について指示があり、この趣旨に沿って各村からそれぞれ種馬の払い下げ申請が行われた。その結果、種雄馬11頭、種雌馬9頭を南部地方より購入し、本格的な木曽馬かいりょうに着手したのであった。南部馬による改良は寛文5年に山村家が雌馬30頭余りを導入して以来のことであった。

明治19年、馬地主や馬商人をはじめとした馬産農家3232人によって木曽産馬組合が設立され、木曽産馬の改良と振興に着手した。当時の木曽馬の頭数は種雄馬48頭、種雌馬4419頭であった。

その年、産馬組合では陸奥産の種雄馬17頭、翌年には米国産トロッター種雄馬1頭、陸奥産種雄馬14頭を導入して改良増殖を推進したが木曽谷の特殊事情(地形や馬の取り扱い)を考慮せずに馬格増大を計ったために、体格の大きい中間種との交配を農家に拒否され始めた。当然の結果として、馬産も次第に衰退する結果となり、明治24年には購入した洋種系種雄馬を売却して、木曽馬の優良馬を選定して供用する気運が高まってきた。

明治31年4月、種雄馬検査法が施行されるが、木曽馬には資格標準に適合するものがなく、特別に明け4歳で4尺2寸(約139cm)以上を種雄馬として認めるように許可申請し、明治38年までの期限付きで猶予認可を得たが、その後は認められず、検査法の基準によることとなり内国産雑種馬が配置されている。

明治32年、産牛馬組合法が公布され、木曽産馬組合を解散して木曽産牛馬畜産組合を郡内に居住し牛馬の生産に従事する者で設立し、馬産振興を計った。設立当時の組合数は3416人で種雄馬58頭、種雌馬6765頭と木曽馬産の最盛期を迎えた時であった。

明治34年、愛知種馬所ができ、木曽はその管轄に置かれ、37年以降福島村をはじめとして各村に置かれ種雄馬が分遣されて不足を補った。このころ分遣された種雄馬は37年に、陸奥産雑種、44年にトロッター雑種2頭、アングロアラブ1頭、ハクニー雑種3頭、内国産良種11頭、雑種の佳なるもの(木曽種)21頭などで、軍事色の華やかな時代で軍の要請に基づき木曽馬を大型し軍用に供すべく馬政計画をたて、外国種により改良をしようとしていた。

しかし、木曽谷の農民は小格である木曽馬への執着を捨てきれずに、国や県の産馬改良方針にもかかわらず外国種や雑種による交配を拒否し、密かに明け3歳の優れた木曽系雄馬を選定しては牧馬放牧し繁殖を計ったといわれている。

体格が大きくなることにより、普段馬を世話する婦女子にとって頭絡の装着や荷物の駄載が困難になり、山坂の歩行に適さず、次第に温順さを欠いてきた。さらに体格の増幅にともない飼料も多く必要になり、従来の木曽馬に比べなんら利点のないのが改良馬であった。加えて、需要先の岐阜、愛知からも山間地農耕馬として不適格なために嫌われ、価格が下落する一方であった。そのために国の馬政計画も木曽谷には浸透せずに山間地の農民を中心として密かに純血馬で交配され、高い純粋性を維持しながら大正期へと移行していった。

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