木曽馬の受難期A

大正期の木曽馬

大正元年、愛知種馬所より各村に8頭の種雄馬が分遣された。その中で内国産アングロアラブの第四ガズランとアングロアラブ雑種の順天は主として主要馬産地である開田、三岳の両村に派遣され農民の希求するような体型に近い産駒を生産し、軍馬としての要請に応ずるとともに農耕馬としての需要も多く市場において高値で取引されることとなった。

特に第四ガズランはガズラン系という多くの種雄馬や種雌馬を残したのでその血液は少なからず現在の木曽馬に影響を与えていると考えられる。

その他、木曽産牛馬畜産組合は東北産などの雑種種雄馬38頭を所有し各村に預託して、1頭に付き1年に15円〜30円の預託料を徴収した。大正年代に入り木曽馬の馬匹改良はより一層促進されることになった。

 また、大正元年に「第三師管陸軍獣医分団編纂木曽の駒」木曽馬の将来について次のような意見が掲載された。

1・堆肥製造の原動力となる馬を養う草刈をしてそれを馬の背に積み自家に持ち帰るのは直接田畑耕作をする労力の無い老幼婦女のみであり、馬体大きくすることは馬を扱えなくなるようになる。

2・木曽馬は体躯矮小、体質強健の二点を以って古来その販路を独占し木曽市場の名声を博す。今小型を改良して大馬とするのは顧客の意志に反す。毎年馬市において大馬が出る事があっても買い手が無いことを知ること。

3・西筑摩の様な山岳起伏の地では大馬は仮に生産できたとしても育成が困難。また、南部馬を改良に使うも今の体型に落ち着いている。今少し努力すれば四尺六、七寸まで体高を伸ばすのは容易であるが、今のままでも山坂の移動や体格が強健なことから比較的挽駄馬(荷を積んだり、車を引かせたりする馬)に適し、寒気粗食に耐える美点を保てばさん山砲兵機関銃駄馬その他小行李用として最適ではないだろうか。将来において木曽馬に限り軍馬管理規則に要求する体尺を下げて四尺四、五寸として、発育の見込みのある馬を購買し用途に応じて使役するようにすれば、木曽の民の幸福だけでなく6,000頭あまりの木曽馬を陸軍に為に導くには良いのではないか。

当時から木曽馬の実態が他の馬と異なり特殊な状況であったことを物語っている。

このような状況から木曽谷農民は外国種による改良に年々抵抗を覚え、種付の拒否を始めた。その折に、大正6年木曽谷の民意を取りいれて木曽系種雄馬として、4頭(六蘇、六田、六峡、六岳)を購入し民有種雄馬として主要産地へ配置した。これらの種雄馬は「第四ガズラン」と「順天」の系統であったといわれているが、純血種に近い体型を持っていたので明け3歳純血雄馬の混牧により生まれたとの説もある。なかでも、六岳、六峡の産駒は木曽馬の体型をもった馬が多く、市場でも人気を集めた。木曽馬の優れた資質を維持することの必要性が改めて認識され、馬産熱も向上した。しかし一方で国の馬政計画に基づいてアラブ、アングロアラブなど雑多な種雄馬が増え、馬格改良が進められたが、木曽馬に寄せる愛着は増すばかりであったといわれている。

大正期には大正5年に馬匹去勢法が制定され、種雄馬以外の明け3歳雄馬は去勢されることになった。しかし、開田などの主要産地の愛馬家は純血と認められる2才雄馬を購入しては候補馬として育成し、春の去勢を免れた明け3歳馬を毎年密かに混牧しては繁殖を計った。

大正12年には第1次馬政計画も2期に入り、木曽馬の改良も次第に進捗し大正末期には大半の木曽馬が軽半血または中半血となってしまったが、主要産地の一部では国の改良政策の陰で駿血種の保存を続けたとされる。

大正時代においては主に軽種馬系統の交配によって改良された為に、軽快な体型に変わり、やや貴相に富んできた。その反面として、温順な山間地農耕馬とての強健性、適格性が失われた。特に華奢な馬は市場の人気も無く、馬産意欲を減退させる結果となった。

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